桑田 真澄 裏金。 元巨人のエース・桑田真澄 約20億円の借金を抱えていた

【野球】桑田真澄の裏金事情はいかに!?巨人の1軍で登板までのエピソードを聞いてみたよ!

桑田 真澄 裏金

概要 [ ] 当時、スポーツ用品メーカーカドヤスポーツで販売促進課長であった著者が、の桑田真澄と関わった際に、スポーツ用品のアドバイザリー契約を結ぶ見返りに、同選手に多額の裏金を要求され、それに従って支払ったと主張する話が記載されている。 さらに、投手や、他選手に関することも書かれている。 同著はまず、スポーツ用品メーカーが、宣伝効果を目的として自社の製品を使ってもらうために、高校球児に自社の商品を無料で支給したり監督を接待したりしている実情について語ることから始まる。 投手の場合は、テレビに映る時間が特に長いため、自社のグラブを使ってもらうことは特に重要であるとのことである。 桑田真澄に関する記述 [ ] 宣伝効果を見込んだ桑田への接触は、時代の1985年春からだという。 同著によると、桑田のプロ入り後も接待を続けた中牧が、桑田プロ1年目のオフに「もう待てない」と自社製品を使うよう迫ったところ、桑田に「昭ちゃん。 裏金で月に二十万くれたら、使ってもいいよ。 それもノータックスだよ」 と言われ、裏金を渡し始めたとしている。 また、には「裏金を二十万から三十万にしてくれないか」 と言われ、裏金が値上げされたという。 1987年11月、カドヤスポーツは桑田と2年500万円で正式契約を結ぶものの、桑田の要求は「本契約以外に、裏金で五百万円ほしい」 「裏金を一千万円にできないか」 「車がほしい。 がいい」 「やっぱりがいい。 クラウンのロイヤルサルーンだ」 とエスカレートしていった様子が書かれており、同著にはクラウンの注文書が写真付きで掲載され 、クラウンは桑田の姉のものとなった旨が書かれている。 ほかにも桑田に渡したものは「高級腕時計は十個以上、ゴルフクラブは五、六セット。 百万円はする高級背広など、数え切れない」 という。 また中牧が退職する時も「そうか、おまえは、辞めるのか。 辞めてもいい。 ただし、裏金だけは寄こせ」 と言われたという。 また裏金以外にも桑田の女性関係について書かれており、ドラフト前に桑田が一週間くらい東京に滞在した際「へ連れて行ってほしい」 と毎日のようにソープランドへ連れて行かされ 、そのために中牧が自腹を切ったり 、プロ入り後はあまりに頻繁となったため会社の経費で落としたりしたという。 また桑田がプロ2年目に活躍すると呼び捨てになり「昭二、コンドームを買ってこい」 とコンドームを買いに行かされたり、と会う際も「りえちゃんにグラブをプレゼントしたいから一日でなんとか作れ」 として作らせ、宮沢と会う直前に時間があったのでソープランドに連れて行かされた旨が書かれている。 それ以外にも1988年1月5日にの瞬間に中牧と偶然立ち会っていた桑田が、同席していたアイドルの手を取り駆け出して、その後彼女を連れ、全日空ホテルのスウィートルームへ逃げ込んだという記述がある。 ほか、中牧がに関して桑田から聞いた話として(ドラフト時)「ザマアミロと思ったね。 (中略)ぼくが一位指名されるのはわかっていたから、いまに泣き面が見られるぞと楽しみにしていたんだ」 、「ぼくが入団発表をする日、あいつのお母さんがぼくのお母さんに厭味の電話をしてきたんだ。 あそこは、どうもそういうところがある。 父兄会のときだって、うちのお母さんはあいつのお母さんにいじめられたんです」 、(桑田が2年目に活躍した後)「あいつのことをすごいと言うけど、何かタイトルを取ったのか。 あいつにぼくのことを言う資格はない。 タイトルを取ってから、ものを言えっていうんだ」 という内容も載っている。 桑田真澄以外に関する記述 [ ] 水野雄仁に関しても1章を割いて書かれており、桑田同様裏金や車や時計を送っていた話、引っ越しを手伝わされた話が書かれている。 具体的には、須藤自身には「ゴルフコンペの賞品が要るんだよ。 わかるだろ、俺の立場、言わなくたってわかるよな」などと持ちかけられ、必ず年3回、1回につき150枚近くのゴルフウェアを持っていかれ、ほかにも須藤の義父へのゴルフシューズや須藤の知り合いの息子への野球道具なども送らされたという。 須藤の周辺でカドヤスポーツと契約を結んでいた選手らについては、高価なゴルフクラブセットを送らされたに野球では他のメーカーのグラブを使われていた話 、用具の面倒を見てきたや藤本健作・親子にもに乗り換えられた話が書かれている。 その他、契約を交わしていない、、らのコーチやスコアラー、渡辺一雄管理部長から、須藤の名前を出されて、家族全員の衣類やゴルフクラブを送らされたり商品を持って行かれたりした話が書かれている。 その中でだけは「須藤さんのように、品物をただでもらうなんて嫌いだ」と言って金を払ったといい、中牧は「それは世間ではまったく当たり前の光景なのだが、私は嬉しくてたまらなかった」と書いている。 影響 [ ] 野球賭博疑惑への拡大 [ ] この書籍の中で、桑田が親しくしている会員制メンバーズクラブのA社長に登板日を教えたらしい旨の記述(著書ではこの人物は「前科がある人」と表現)や会員の勧誘に成功すると現金をもらっていた記述があり 、さらにA社長がかつて常習賭博罪で有罪判決を受けたことも明らかになった ため、桑田が野球賭博に関与しているのではないかとの憶測を招き 、その件も週刊誌やスポーツ紙等で騒がれることとなった。 当初の調査結果 [ ] 3月11日、巨人は桑田と20分ぐらい 話し合って事情を聞いたところ 、桑田は登板日漏洩と金品の授受をいずれも否定した。 そのため、巨人は、調査結果を30ページ以上の報告書でに提出し 、さらに同15日に7ページの追加報告書を提出した。 この追加報告を受けて、会長は「私の疑問に思っていた点はすべて解消された。 調査はこれで終わった」、と調査の終了を宣言した。 巨人は翌16日に記者会見を開き、A社長と十数回食事をしたことなどは認めたものの、「金品の授受、まして登板日を教えた事実は全くない」と主張して中牧を名誉毀損で提訴する姿勢を見せ 、桑田も「疑いが晴れてほっとしています」 「内容が真実との誤解を与えかねませんので、名誉回復のため訴訟を提起したいと考えています」 との声明文を出した。 その結果、会長は、桑田には誓約書提出、巨人には厳重戒告にとどめ 、訴訟の提起については「きわめて当然の措置であると評価する」と述べた。 この措置について、コミッショナーも「巨人と川島会長が十分調査された。 処分の差し戻しも考えていない」 と述べ、元コミッショナーも、「川島セリーグ会長の人となりを知っており、その判断力に全幅の信頼を置いている」 と述べていた。 しかし、朝日新聞はこの巨人側の対応に疑問を呈し、告発した中牧に球団がまったく接触していない点を「世間一般では通用しない論理だ」「調査結果を全面的に信じろといわれても無理がある。 調査内容の概略さえ明らかにせずに疑惑がなかったというのも承服しがたい」と批判した。 同様に、毎日新聞も、「調査が第三者機関の手で行われなかったという不自然さはぬぐえない」と批判した。 中牧とリム出版社の編集長も、3月17日に反論の記者会見を開いた。 中牧は、桑田がA社長から札束の入った封筒を渡されたのを5度見たことや、A社長から土地購入の交渉に同伴したお礼にロレックスをもらったと桑田が話していたことなど、著書には盛り込まなかった例を挙げながら、球団の調査結果について事実関係の認定に誤りがあるとの反論を展開して 、巨人側に公開質問状を送った ため、巨人側と中牧側で意見が対立する形となった。 一転して金品授受の事実を認容 [ ] ところが同年3月30日、桑田は巨人に対し、金品の授受がなかったと答えたのは虚偽であったと申し出ていたことが分かり 、A社長から高級腕時計1点と総額100万円を受け取っていたことが明らかになった。 そのため代表と桑田が謝罪の記者会見を開き 、巨人は桑田に対して開幕から1箇月の謹慎と罰金1000万円の処分を下した(下記参照)。 桑田は、嘘をついていた理由について、「いままではいっさい金品を受け取ったことはないといってきましたが、今後、野球を続けられなくなるだろうという不安があったからです。 ただ、私は絶対に野球とばくにはかかわっていません」と釈明し、野球賭博への関与は明確に否定した。 もっとも桑田の謝罪会見について毎日新聞は「用意した謝罪文を読み終わると質問は受け付けず、球団のガードの固さをのぞかせた」と書いた ほか、の対応に関して、前回の巨人の報告をうのみにした点をわびたにもかかわらず今回の処分内容もあっさりと適切と認めたことについて「前回の経験が全く生かされていない」と批判している。 訴訟 [ ] 上記のように巨人側は金品授受を認めて謝罪会見となったが、同時に巨人と桑田が共同原告となり、あたかも野球賭博に関与しているかのような印象を読者に与えたことや、巨人の体質や管理体制が批判されたことの点につき、中牧に対して名誉毀損で1億円の損害賠償と謝罪広告を求める訴訟を東京地裁に起こした。 これに対して、中牧自身は、巨人側の最初の会見時に、「私は桑田君が野球とばくに関係していたなどとは一言も言っていません。 私は桑田君が登板日を教えたことを注意しただけです。 巨人が私を告訴することが理解出来ず当惑しています」と主張しており 、結局、4月16日に巨人側からの訴訟が不当であるとして、1000万円の損害賠償と謝罪広告を求める反訴を提起した。 ほか、スポーツ用品の小売商組合連合会のB理事長が、前年6月に中牧から、カドヤスポーツからの退職金が半額しか支払われなかったことと立て替えた340万円(中牧曰く桑田と水野への裏金 )を返してもらっていないことを相談されて、代理人としてカドヤスポーツと交渉して合意に至ったところ、「巨人選手らに関する事柄を公表しないことが退職金支払いの際の条件だったのに、中牧氏はこの合意を破り、自分の面目は丸つぶれになった」 として、同年3月26日、慰謝料100万円を求めて東京地裁に訴訟を提起した。 しかし中牧は「私が真実を告発したことに対する圧力としか考えられない」と反論し 、同27日に中牧がそのような書面も口約束もしていないとして「不当訴訟と名誉毀損で近く同地裁へ訴える」と反訴の姿勢をみせた ところ、同31日にB理事長から訴訟を取り下げる旨の連絡が中牧にあったという。 野球界以外への波及 [ ] 4月9日、競技スポーツ団体の監督官庁である文部省が日本野球機構に、桑田に端を発した金品授受などの問題について事情聴取を行った ほか、が記者会見で野球関係者に反省を促すことを求めた。 さらに予算委員会でも桑田問題が採り上げられ、そこで首相が「野球協約180条のとばく行為に該当することがあり」と発言し、あたかも桑田が野球賭博に関与していることを決めつけるような発言をしたため、陳謝する一幕もあった。 この件が明るみに出たことで、セリーグは学識経験者らによる綱紀委員会を設置することを決めた。 または、桑田個人の問題ではなく、巨人がたかりを承知しながら黙認してきたことが最大の誤りと指摘している。 この本の内容を受けて『緊急レポート!! 言わせてもらおう「桑田問題」 』 『くたばれ桑田真澄、くたばれ巨人軍』 などの本が出版されるなどした。 桑田側と中牧側の和解 [ ] 騒動から約半年経過した1990年9月20日、桑田側と中牧側の裁判は、桑田が野球賭博とは無関係であることを確認する条項と、野球賭博に関与したと誤解されたことについて心から遺憾の意を表するという条項など、6項目 の和解条項で合意に達して和解した。 登板日漏洩に関しては、自然な日常会話や食事中の話の中で知人に登板日を数回教えただけと桑田側が認めている。 この和解に関して、巨人側は「桑田選手の潔白が証明された。 判決まで何年間かかかることを考えると、早期に解決した方がいい」 「判決での勝訴に匹敵する内容」 と主張し、中牧側は「もともととばくに関係しているとは主張しておらず、裁判の過程で第三者に登板日を漏らしたことは巨人側も認めた。 著書の正しさが証明された」 と主張した。 処分 [ ] 巨人は3月30日 桑田に対し、金品の授受等が統一契約書17条(模範行為)に反するとして、シーズン開始後登板禁止1か月、罰金1000万円の処分を行った。 同時に、湯浅武球団代表も、譴責と減俸3か月の処分を受けることを明らかにした。 その後の4月2日、巨人は、同著で同じく金品の授受が明るみに出た水野雄仁が高級乗用車と200万円程度の金銭を受け取っていたとして罰金100万円と譴責処分を科し、ほか衣類などの物品を不当に授受したとされた末次利光、上田武司、関本四十四、樋沢良信が譴責処分と始末書提出、福王昭仁と渡辺一雄と藤本健作が譴責処分、藤本健治が厳重注意となった。 以上を受けては、4月3日、巨人に対して2000万円の制裁金を課した。 その後吉國一郎コミッショナーは、処分後にファンの「事件ばかり起こして」とのヤジに対して桑田が「ボクが起こしたんじゃない。 向こうが起こしたんだ」との「捨てゼリフ」 を残したこともあり 、「桑田のその後の言動に反省の気配が薄い」 として、巨人オーナーのに戒告処分を科し、セリーグ会長のに減俸(10分の1を2か月)する制裁を科した。 コミッショナーによる球団オーナーやリーグ会長への制裁はでもなく、初めてであった。 もっとも、巨人側は、反省が薄いという点に反論し、マスコミの過剰な報道が桑田の軽率な発言につながったとして、コミッショナーにマスコミへの自粛措置を採るよう要求した。 9年後の週刊現代の記事と裁判 [ ] なお、これら騒動の9年後、が1999年9月18日号と25日号において、桑田と暴力団幹部のCと写った写真8枚を示して、1990年に桑田が野球賭博を否定したことに触れて実際には桑田が野球賭博に関与しているかのような記事を掲載した。 このように、1990年の野球賭博疑惑が再燃することとなったため、桑田は、同誌を発行していると代表取締役らを名誉毀損で提訴した。 裁判では、この写真は桑田が1994年オフに、チームメイトからタレントDのいる酒席に招かれ、タレントDからCを不動産会社の会長をやっている人物であると紹介され、暴力団幹部とは知らないままその際に撮影されたものであると認定された。 そのため、桑田がCが暴力団の幹部であることを全く知らなかったことは自然なことでありCと酒席を共にしたことについて過失があるということはできない 、桑田が野球賭博に関与したことについて真実であることを窺わせる証拠は全くない 、として名誉毀損の成立を認め 、慰謝料600万円と謝罪広告の掲載が認定されている。 出典 [ ] 頁数だけのものは『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』における頁。 17頁• 52頁• 59頁• 69頁• 70頁• 80頁• 80頁• 81頁• 82頁• 83頁• 101頁• 27頁• 31頁• 31頁• 37頁• 62頁• 128頁• 130頁• 72-73頁• 40頁• 41頁• 41頁• 138頁-179頁• 195-196頁• 199-200頁• 200-203頁• 204-207頁• 208頁• 74頁• 朝日新聞1990年3月13日23面• 朝日新聞1990年3月12日朝刊24面• 朝日新聞1990年3月12日朝刊24面• 朝日新聞1990年3月13日朝刊23面、読売新聞1990年3月13日30面• 毎日新聞1990年3月17日朝刊社会面• 毎日新聞1990年3月17日朝刊スポーツ面• 毎日新聞1990年3月23日スポーツ面• 毎日新聞1990年3月17日朝刊スポーツ面• 毎日新聞1990年3月18日朝刊27面、朝日新聞1990年3月18日社会面• 朝日新聞1990年3月23日朝刊23面• 読売新聞1990年3月31日朝刊21面• 毎日新聞1990年3月31日朝刊31面• 毎日新聞1990年3月31日朝刊31面• 毎日新聞1990年3月31日朝刊26面• 朝日新聞1990年4月17日夕刊15面• 毎日新聞1990年3月27日朝刊30面、朝日新聞1990年3月27日朝刊30面• 朝日新聞1990年3月27日朝刊30面• 朝日新聞1990年4月2日朝刊24面• 毎日新聞1990年4月9日夕刊11面• 朝日新聞1990年4月10日夕刊• 読売新聞1990年4月13日朝刊2面• 朝日新聞1990年4月6日朝刊• 毎日新聞1990年3月30日夕刊19面• プロ野球を愛する会著、 五月書房編集部出版• プロ野球を愛する会著、データハウス出版• 朝日新聞1990年9月21日朝刊31面• 中日新聞1990年9月21日 朝刊30面• 朝日新聞1900年3月30日夕刊22面• 毎日新聞1990年4月2日スポーツ面• 毎日新聞1990年4月4日朝刊26面• 朝日新聞1990年4月4日朝刊31面• 朝日新聞1990年4月4日朝刊23面.

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桑田真澄の裏金疑惑や野球賭博、借金20億、アニータ?スキャンダルまとめ!

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入団会見で桑田は両腕を大きく広げながらジャンプしてして喜んだ(1985年12月26日) 今年で高校野球は100年を迎える。 甲子園球場では数えきれないドラマが生まれた。 今から30年前、1985年のドラフト会議で球界を揺るがす大事件が起こった。 PL学園の清原和博と相思相愛と見られていた巨人が、同じPL学園で早大進学を公言していた桑田真澄を強行指名。 巨人に裏切られた清原は人目をはばからず号泣し、前言を翻して巨人に入団した桑田には、以降ダーティーなイメージがついてまわった。 果たして当時ささやかれた巨人と桑田家の間に「密約」はあったのか。 そして本当の黒幕とは…。 事件から四半世紀以上が過ぎた今、PL学園OBで本紙評論家の得津高宏氏が、衝撃告白した。 「第1回選択希望選手 読売 桑田真澄 17歳 投手 PL学園高校」 その瞬間、東京・九段のホテルグランドパレスのドラフト会場は一瞬、凍りついた。 やがて巨人以外の球団のテーブルはざわつきだし、記者たちは「やりやがった!」「密約だ!」などと大騒ぎ。 だがこの時、ロッテのスカウトとして会場にいた私は「やられた」というより「やはりな…」という気持ちのほうが強かった。 それは私だけではなく、きっと他球団のスカウトも同じ。 「桑田と巨人はデキている」。 実際、私は桑田の「巨人入り」を確信していた。 当時の12球団のスカウトでPL学園OBは私だけ。 だから私はスカウトとして接触できなくても、OBとして桑田と清原には話をすることができた。 「巨人と阪神以外なら日本生命」としていた清原は、私には「得津さんすみません! ジャイアンツだけなんです。 お願いですから指名しないでください」とできるだけ競合球団を減らしてほしくて、そう言っていたし、桑田は「ボクは大学に行きたいんです。 プロはどこの球団にも行きません」。 だが、私が「もし、巨人から指名されたらどうするんだ?」と聞いたら…。 答えることはできなかった。 そして親友の清原が巨人入りを熱望している手前「ボクも巨人に行きたいんです」とは言えない性格だということもわかっている。 桑田もまた、ウソはつけない純粋な高校生だった。 だから私はロッテのスカウト部長の高木さんに「桑田はダメですわ」と報告している。 それでもかわいい後輩が、自分を殺しながらも「もし、巨人が指名してくれたら…」という思いを胸に秘めていたことがわかった。 応援してやりたいと思った。 その後は契約金の明細書を渡して「プロに入ったらこれぐらいもらえるぞ」なんて話もしたし、周囲の声に惑わされてほしくなかったから「自分のレールは自分で敷けよ」という言葉もかけた。 そんなある日、桑田から電話がかかってきた。 ドラフトの直前で、東京まで出てきているという。 「どうしたらいいでしょうか」というから「悩んでいるなら家に来いよ」と、桑田の両親に連絡を入れて私の自宅に泊まらせた。 ゆっくり考える時間が必要だと思ったから、とくにああしろ、こうしろとは言わなかった。 私の家では私の中学生の娘とキャッチボールをしたり、ゲームをしたりテレビを見たり…。 女房の裕子には少年時代の話を打ち明けたそうだ。 「ボク、寒天を煮ながら考え事をするのが好きなんです。 パンの耳をもらってきて揚げて食べたこともあったなあ。 苦労したから、お母さんやお姉ちゃん、弟を大事にしたいんです」 一部マスコミには「桑田が行方不明」とも騒がれた、1泊2日の極秘旅行を終えた桑田は、そうして大阪へと帰っていった。 あこがれの巨人でプレーして、家族を楽にさせてあげたい。 その後に巨人の指名を受けた桑田が、早大進学を撤回したのも、私にしてみれば自然な流れだった。 ただ、そんな桑田の純粋な気持ちを利用したのが、周囲の大人たちだった。 「桑田は巨人に指名されれば入団する」。 それを誰よりも知っていたのは、PL学園野球部の元監督で、その後はPLのらつ腕スカウトとしてPL黄金時代を築いた井元俊秀さん(79=現秋田・明桜高スカウト)。 全国の有望な中学生を見いだす眼力とネットワークもさることながら、プロのスカウトでこの人を知らない人はいないほど。 一部では「黒幕」として恐れられるなど、12球団に幅広い人脈を持っていた。 当時の野球部員の進路は井元さんが一手に引き受けており、この時の桑田も井元さんが付きっきりだった。 巨人の強行指名後、PLの中村監督と高木部長がなんとか早大に行かせようと桑田を説得したことでもわかるように、PLとしては今後の付き合いもあるため早大に行ってもらわなければ困ったのだが…。 井元さんはPLの人間にもかかわらず桑田の意思を尊重しようとした。 それが「早大進学を公言させて他球団を降ろさせ、巨人が一本釣り」という井元さんのシナリオだったのだから当然だろう。 あのころのPL野球部には巨人の伊藤菊雄スカウトの息子が在籍していた。 そのため桑田の父・泰次さんと、伊藤スカウトの関係も疑われたりしたが、その泰次さんは井元さんにドラフト後「真澄くんのために、お父さんが悪者になってくれ」と言われている。 当時のスカウトたちの認識はそんなところだった。 68歳。 和歌山出身。 左投げ左打ち。 74年の日本一に貢献する。 76年にサイクル安打を達成。 77年オールスター出場。 78年には176打席連続無三振を記録した。 82年に現役を引退すると、83年からスカウトに転身。 87年からは打撃コーチを務めた。 通算成績は実働16年で1305試合に出場し、打率2割8分8厘、41本塁打、368打点。

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PL学園OBがすべて語った「桑田巨人 ドラフト密約の真実」

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概要 [ ] のとは、1年生時からエースと4番としてそれぞれ活躍し、5回の全国大会出場のうち優勝が2回・準優勝が2回・ベスト4が1回という記録を残した。 二人はと呼ばれ、プロ野球ファンのみならず、世間の注目を大いに集めた。 清原はプロ入りを志望し、への入団と、尊敬する監督の下でのプレーを熱望していた。 清原と12球団担当者はドラフト前に面談し、、、が早々に撤退した。 清原は巨人以外では、などを希望し、阪神編成部長には「交渉権を得たら来てくれるか?」と問われて「はい、お世話になります」と答えている。 一方、巨人スカウト次長は清原と両親に「野手では1番の評価」と伝えていたが、「1位は投手か野手か、まだ決めていない」と確約はしなかった。 桑田は大学への進学を表明 し、ドラフト会議4日後の11月24日に教育学部の入学特別選抜試験を控えていた (ドラフト会議当日までに早稲田大学への進学が決まっていたわけではない)。 このため、プロ志望の清原は指名の競合が予想された一方、進学志望を表明している桑田への指名は回避されると思われた。 (11月20日開催)当日に桑田には3球団から1位指名の連絡が入った。 しかし、ドラフト会議でその3球団は桑田ではなく清原を指名した。 一方で巨人は清原ではなく、桑田を1位で単独指名して交渉権を獲得した。 当時、西武の球団管理部長であり、自身で清原のくじを引き当てた によると、桑田がドラフト1位で指名されなければ外れ1位又は2位で西武が指名する予定だった。 根本がこの話をドラフト直前にリークしたため、巨人は桑田を単独1位指名してこれを阻止した。 巨人の桑田1位指名は監督もドラフト会場に着くまで知らされていなかった。 清原には、、中日、、、阪神の6球団が1位指名で競合し、抽選の結果が交渉権を獲得した。 巨人からの指名を希望していた清原は会見で涙を流した。 その後、清原は西武に入団、桑田も早稲田大学の入学試験を辞退し巨人に入団した。 桑田は早稲田受験中止後の記者会見で「自分の初志を貫徹したということです。 巨人1位だったら入ると考えていたし、それ以外だったら早稲田と決めていました」と答えた。 ドラフト後に様々なメディアで巨人と桑田に密約があったのではないかと報道されたが、今なお真相は藪の中である。 清原は、で西武が巨人を破った際、シリーズ制覇目前となった試合終了間際に守備位置で涙を流したことが語り草となっている。 その後、清原はを行使し、1997年のシーズンから巨人に移籍し、2005年に自由契約となってへ移籍するまで再び桑田とチームメイトとなった。 脚注 [ ].

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